■恵比寿と大黒(2008.3.15) 七福神は、インドのヒンドゥー教(大黒・毘沙門・弁才)、中国の仏教(布袋)、道教(福禄寿・寿老人)、日本の土着信仰(恵比寿)が入り混じって形成された、神仏習合からなる、いかにも日本的な信仰対象で、室町時代末期頃から信仰されていると言われている。 さて、上沼田神楽には、「大国主の神」と「事代主の神」という演目がある。「大国」と「大黒」、「事代主」と「恵比寿」。その関係について、結構聞かれるので整理してみた。 まず、大国主と大黒天について。 大黒天は、元々はヒンドゥー教のシヴァの憤怒の化身であるらしい。本来はマハーカーラといい、マハーは「偉大な」をカーラは「時」もしくは「暗黒」を意味するため「大暗黒天」とも呼ばれ、青黒い身体に憤怒の表情をした神であった。後に仏教や密教に取り入れられ、日本においては仏教の伝来と共に日本古来の神である「大国主」と習合され、独自の神となったらしい。 次に、事代主と恵比寿について。 恵比寿は記紀神話(古事記、日本書記)以外の外来神とされ、もともとは異邦より村に時たま訪れる外来物に対する信仰(神)であり、海の向こうからやってくる水の神である。これが、記紀神話において国譲りの要請を受諾するかどうかを大国主神の使者が事代主に聞きに行ったとき、釣りをしていたとされる事代主の命と結びつき、同一の神となったとされる。また、蛭子命(伊耶那岐命と伊耶那美命の子)を神として奉る神社もある。 両者ともに共通しているのは、本来の信仰があり、これに記紀神話が混ざり、より身近な存在として今に伝わっているという点だろう。 「事代主と恵比寿さんは同じなの?」と聞かれた場合、「同じといえば同じ、違うといえば違う」と答えるのが正しいのかも。。。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ■民俗芸能の連鎖(2007.11.4) 先日、公演を終えた瞬間にふと思った。「祭り」という地域古来の風習があるおかげで、「神楽」という伝統芸能も存続できるんだよなー・・・と。 以前、あるテレビで、人間国宝が作品を仕上げるのに、そのためのパーツが今の時代では入手しにくく、それ故に存続が危ぶまれる、という番組を見た。僭越ながら、神楽も同じ状況かなーと思った。 神楽は、伝わってきた地域と共にあるもの。ただ神楽を舞うだけでは、神楽とは言えない。地域が伝え、育ててきた神楽だからこそ、地域の人に感謝し、地域の心とあわせて受け継いでいくことが大切だと思う。 神楽は、各地域の祭りと共にあるもの。祭りなしに演目全てを保持し続けることは困難であり、祭りなしには神楽とは言えない。最近は、イベントに起用されることで、「舞手」と「観客」がはっきりと分かれてしまっているが、本来は互いが酒を飲み交わし、言葉を掛け合いながら楽しむものだろう。また、祭りの担い手も高齢化し、手間がかかるために若者が面倒見を嫌い、簡素化する傾向がある。 また、神楽で使う衣裳や面も、それぞれ職人の腕によるものだ。息を吹き込まれた道具は、それだけで観る人を魅了するものである。 時代とともに、(神楽に限らず)民俗芸能を取り巻く環境も大きく変わっている。思うに、「古き良き時代」に戻ることが必要なのではないか。民俗芸能の連鎖を断ち切らないためにも、田を守り、山を守り、水を守り、そして地域を守る。そんな心を一人一人が考えていく必要があると思う。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ■雲太、和二、京三(2007.9.10) 平安時代に書かれた「口遊(くちづさみ)」という書物に「雲太、和二、京三」という記述がある。雲太(うんた)とは出雲大社(いずもおおやしろ)のこと。この当時の出雲大社は、東大寺大仏殿や平安京大極殿をしのぐ日本一の高層建築であったらしい。その高さは、16丈(48m)、15階建てのビルをしのぐという、信じがたい高さである。平成12年には、境内からこの記述を裏付ける巨大な柱根が発見され、天にそびえる古代出雲大社の真実性はいっきに高まった。 現在の出雲大社本殿は、江戸時代に建てられたもので高さは24m。社伝によれば、太古の出雲大社はさらに高く、97mもあったといわれている。正門そばの古代出雲大社模型展示館「雲太」では、古代の高層神殿を10分の1のスケールで展示している。 何故、古代の、しかも京から遠く離れた出雲にこんな大きな神殿が建てられたのか・・・?その物語は、上沼田神楽の演目の中にも盛り込まれている。 もともと、出雲の国は「国つ神」である大国主の命が治めていた国だった。数々の試練を乗り越えて出雲の王となった大国主だが、その土地に目をつけたのが天照大御神だった。建御雷神(たけみかずちのかみ)と天鳥船神(あめのとりふねのかみ)が出雲の国に派遣され、有名な「国譲り」の交渉が行われた。 結局、古事記上は「無血開城」となった出雲国だが、大国主の命は、大社を建て、自らを奉ることを国譲りの条件とした。この条件に基づいて、それこそ立派な神社となったのが出雲大社である。 実際には、出雲の国を奪い取るための争いがあったと推察される。昔々、恐れられたのは死者の怨念だった。菅原道真の場合も、この怨念をしずめるために太宰府天満宮が建てられた。その大きさ、社格は、鎮める者の力に応じて決まるのだろう。出雲という大国を治めていた大国主を鎮めるためには、大きな神社が必要とされた。それこそ、「雲太」級の神社が。その拝殿の奥には、大国主が奉られてはいるものの、正面を向いておらず、その四方は強力な神々が抑えつけているらしい。 ・・・・・・・この物語については諸説がありますので、興味のある方はもっと調べてみてくださいな。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ■上沼田神楽の不思議(2007.2.1) 日本中の各地に受け継がれる神楽。その地域ごとに特徴があり、その地域の文化として誇るべきものだろう。 さて、上沼田神楽の所在地である山口県岩国市錦町。この地域には、大きく分けて4つのタイプの神楽が存在する。どれも、その本来の目的は「収穫に感謝し、神を祭祀する」ことであることに変わりはない。 まず一つは、瀬戸内海側に多く見られる「神舞」と呼ばれる神楽。演劇敵要素は少なく、衣装も質素なものがほとんど。舞所の四方に柱(3メートル四方くらい。竹が一般的?)を立て、その中で舞われる。 次に、島根県石見が発祥とされる石見神楽。島根県西部では、この石見神楽が主流であり、同じ岩国市錦町の「向峠神楽保存会」はこの石見神楽を継承している。 三つ目は、広島県の神楽。ここでは、元々島根から伝承された神楽を基に改良・創作が活発に行われ、「スーパー神楽」と呼ばれる大衆受けする神楽が確立されている。一方で、古くからの神楽を守り続ける地区も確かに存在する。 そして、それらの神楽の間に挟まれ、それぞれの要素をもつ「山代神楽」。岩国市北部の古称が「山代」であることからこう呼ばれる。いつから伝わったか、その演目は石見神楽に近く、舞い型は神舞に通じるものもある。一方で、天大将軍(山之神)や芝鬼人といった、この地域独特の演目も存在する。 で、上沼田神楽の不思議。周りで様々な神楽が舞われる地域に位置しながら、演目には法則がある。それは、基本的に、古事記に記された物語しか伝わっていないというところだ。『演目紹介』を見ていただければ分かるけど、古来から伝わる12演目のうち、清祓いである「天神地祇」、陰陽五行を表す「五郎の王子」を除けば、全て古事記に関する内容の舞いになっている。 上沼田のすぐ下の「上須川」という地区にも以前は神楽があったらしいけど、そこには塵倫や鍾馗が伝わっていたらしい。はっきり言って、石見神楽の方が見栄えはするのに、それを取り入れようとしなかったということだ。よっぽど頑固な人が仕切っていたに違いない(笑)。ある意味、固有の文化があったのだろう。 そんな上沼田神楽の不思議を、今後も舞い伝え、飲み伝え、語り継いでいきたいと思いますね。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ■八(2006.8.2) 八俣大蛇といえば、神楽好きな人じゃなくても知っているメジャーな演目ですよね。頭が八つ、尾が八つの大蛇を須佐之男命が退治するという物語。最近では、これに従って大蛇を八匹出す神楽団もある。 しかし、この物語、大昔の川の氾濫を大蛇に例え、それを治めるという物語の比喩という解釈があります。で、その川は別に八本だったわけじゃないんです。 古代において、「八」という数字は”末広がり”という意味から縁起がいいものであり、また、八百万(やおよろず)の神々という言葉があるように、”とてもたくさんの”という意味もありました。八俣大蛇は、いくつも支流がある川の氾濫を鎮めた、という古代神話だったのでしょう。 また、天照大御神が岩戸に隠れたとき、これを誘い出すために用意された八咫鏡(やあたのかがみ)、八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま)もそれぞれ、「とても大きな鏡」「とても長い(紐に繋がれた)曲玉」という意味です(三種の神器参照)。 なので、別に大蛇八匹にこだわる必要は無いということで、上沼田神楽は最大五匹で頑張っていると・・・。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ■倭、大和、日本(2006.1.23) 日本の国名の変遷について、色々と調べてみました。 @倭 古代中国では日本のことを「倭(わ)」と呼んでいました。中国に渡った日本人が自分たちのことを「我(吾:わ)」と言ったのに対して「倭」の漢字をあてたという説があります。かの有名な”漢委(倭)奴国王印”の金印は、当時の漢王朝が倭の奴(な)というクニに贈ったものです。当時の日本にはまだ統一国家がなく、小さなクニが数多く存在していたそうです。そのため中国が呼ぶ「倭」は単に国家を指しているのではなく、日本の地域を指すという説、クニの連合体である説などがあります。 ちなみに当時中国では、他国を指す言葉には蔑称を使っていました。「倭」というのも”従順で小さな”などの意味があるそうです。 A倭と大和 時が過ぎ、日本人自体が自らのクニのことを倭であることを認識するようになったと思われる。さらに、倭の字は蔑称であることを理解したため、「和」の字を当て、頭に「大」を付けて「大和」と記すようになった。西暦400年前後の話らしい。 一方、数多くのクニが存在した日本も、次第に力のある豪族が支配地域を拡げていくことになる。その中の一つとして、畿内を治める「やまと」というクニがあった。この「やまと」が日本を表す(日本という地域の総称=日本を支配するに相応しい)「大和」の字を受けたのではないだろうか。 なお、西方にあった倭国を大和が征服したとの説や、邪馬台国と関係する説などがある。 B大和と日本 更に勢力を増した大和は、だんだんと国家としての基盤を形成していく。 607年の遣隋使で聖徳太子が隋に宛てた文書「日出ずるところの天子、日没するところの天子に書を致す」。この文言が「日本」という国名の基といわれている。ただし、当初は日本と書いて「やまと」と読んでいたらしい。 701年に完成した「大宝律令」により、「日本」という国号が法的に確立した(ただし、当時は音訓の関係で「にほん」ではなかった)。この背景には、7世紀後半以降、緊迫する東アジアの国際情勢の中で、中央集権化を進めることで、強力な政府を構築し、国家としての独立を保とうとした。そのため、唐の統治制度を模倣しながら天皇を中心とする国家づくりが進められ、その集大成が大宝律令の完成であった。 大宝律令による統治・支配は、当時の大和朝廷が支配していた領域(東北地方北部を除く本州、四国、九州の大部分)にほぼ一律的に及ぶこととなった。 ちなみに、「天皇」という言葉が用いられるようになったのは推古天皇の時代(592〜628年)との説がある。 神楽で日本国を指す言葉を使うとき、時代背景を踏まえ、上記のどれを使えば正しいのか考えてみましょう! また、神楽はその性質上、舞台の陰に必ずといっていいほど天皇(朝廷、勅命)があります。遥か昔から勧善懲悪の中に天皇家の正当性や力を重ねているのでしょうか。私は別に天皇を崇拝するわけではありませんが、神楽に関わる以上、天皇や日本国の歴史は切り離せない問題でしょうね。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ■日の丸(2005.11.28) 掲示板での「階位を表す色」の話題から飛び火して、一体日の丸はいつからあるんだ?と疑問に思いました。神楽で使われる扇の中でも、「日本」を思わせるこの日の丸の起源とは・・・。 日の丸とは、日本の国旗に使われているも文様であり、白地に赤い丸をベースとしている。 この歴史は古く、平安時代より遥か昔までさかのぼる。記録上は、「続日本紀」701年(大宝元年)正月条に記されているのが最初というが、一説によると、朝廷が日本を制定したときにすでに「日出ずる国」を表すとしてこの文様が使用されていたとの説もある。となると、神楽で大国主や事代主がこの日の丸の扇を使うのはどうなのだろうか?彼らから見て、いわば敵である朝廷(天皇)の象徴を使うのは誤りなのだろうか? もともと島津藩が外交用の旗として使っていたのを、開国時に商船を区別する旗として江戸幕府が正式に採用したのが「日の丸が国旗として使われた起源」である。その後日の丸は、明治政府、日本国政府に引き継がれ、国旗として利用されていたが、これを正式に国旗として制定する法律は存在しなかった。様々な議論の末、平成11年(1999年)の「国旗及び国歌に関する法律」で正式に国旗として認定された(それまでは慣習的に扱われていた)。 なぜ朝廷が使っていたものが島津藩で使われ、更に幕府がそれを採用するのか、その経緯もまた疑問。島津藩は朝廷とのつながりが強かった気もするんで、その関係か・・・? 階位を表す色については、また後日・・・。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ■世継ぎ(2005.11.10) 今、大奥を見ていて思いました。 当時は一夫多妻制。数撃てば当たるわけで、次の天皇候補は選ぶほど、争うほどいたことでしょう(大奥は徳川家ですが・・)。これがこれまで天皇家が125代続いた理由でもあります。 で、一夫一妻制の今日では、これが難しいようで。数少ない血筋、それも男子に限っては、世継ぎの確保もままならないらしく、現在は法律の改正が検討されているようです。 その伝統文化の保存にしても何にしても、いろんな問題があるということで・・・。 (追記) で、黒田清子さんの結婚式を見ていて思いました。 ・・・この人たちって、天照大御神の子孫なんだよなー。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ■文化財保護(2005.10.20) 上沼田神楽に限らず、多くの神楽は国・県・市町村の文化財指定を受けています。この文化財に指定するということは、これらの保存に対して何らかの措置をする、という行政の約束な訳ですね。 文化財には、大きく分けて「有形文化財」と「無形文化財」があります。読んで字の如く、有形文化財は刀剣や壷とかの形あるものです。これらは、保存場所や管理、極端な話湿気とかにも注意すれば、いつまでも保存できるものでしょう。 しかし、無形文化財はそうはいきません。 無形文化、例えば神楽を伝えていくには、それなりの人数が必要です。これまでは伝承地域の人間だけで構成されていたので「やるのが自然の流れ」でしたが、高齢化や人口流出によって地域外の団員が増えるとそうはいきません。舞台がないと練習に精がでない。⇒華やかさがないとやる気も起きない。⇒入団する人もいなくなる。⇒団の運営が困難。という恐ろしいフローチャートが、頭をよぎります。 で、神楽団員にとって、「文化財保護」ではなく、「文化財振興」という気がないと、今後続けていくのはなかなか大変なんじゃないかと感じています。この辺、広島や島根では行政を巻き込んで活発な活動がなされており、うらやましい限りです。山口県の神楽は、これらに比べてどうしても神事的な色が強すぎて、イベントとして成り立つかどうかは怪しいところです(神事である、というのが神楽の原点のハズなんですが・・・。)。もちろん、舞いの舞台を求めていくためにどのような措置をとるのかは各団体でまちまちでしょう。伝統を重視し、型をくずさないことで価値を高める。現状を維持しつつ、時代の流れを少しずつ取り入れるなどなど。 一つ思うのは、無形文化である以上、これまでも時代に応じて少しずつ型を変えてきたハズです(一子相伝の芸能ならともなく、里神楽ならなおさらのこと)。それを、現代の型で固定してしまうというのも何か違うんじゃないかな、と。言語と同様に、文化も生き物なんですから、時代に応じてある程度型を変えるのはいいんじゃないかと思います。ただ昔と違うのは、車もテレビも無い時代、緩やかに地域文化と併せて型を変えてきたのに比べ、現代は急速に変わり過ぎる点です。異なる文化を取り入れるのはいいですが、染まるのは安易に受け入れられない、というのが私の今のところの考えです。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ■神社、神宮、天満宮・・・(2005.8.26) 各地で奉納をしているうちに、ふと気付きました。「○○神社」やら「○○八幡宮」とかあるけど、何が違うのだろうか、と。単純に考えて祭神とか由緒だろうかなーとは思いましたが、一応調べてみました。 ・神社・・・神道(日本民族古来の神観念に基づくもの)の神を祭り、祭祀(さいし)や参拝のための施設のある所。また、その建物。 ・神宮・・・格式の高い神社の称号。また、その称号をもった神社。古代から皇室と深いつながりを持つ神社、あるいは 天皇を祭神とする神社。熱田神宮・平安神宮・明治神宮など。 なお、伊勢神宮の正式名称は「神宮」であり、本来は伊勢神宮だけが神宮を称していた。 ・天満宮・・・菅原道真(すがわらのみちざね)の霊である天満天神を祭った神社。全国各地にあるが、特に大阪市北区の天満宮、 京都の北野天満宮、太宰府(だざいふ)天満宮が有名。 ・八幡宮・・・大分県宇佐市に鎮座する宇佐八幡宮を全国八幡の総本社とする。一般に応神天皇・比売(ヒメ)~・神功皇后を祭る。 源頼朝が鎌倉の鶴岡八幡宮を創建されてから武士の信仰が広まった。 ・大社・・・かつては出雲大社のみが称していたが、戦後増加。全国に多数ある同名の神社の中で宗社にあたる神社であって、 旧社格が官幣大社・国幣大社であることを基本としている。 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ■三種の神器(2005.7.7) 下記に記述する鏡と剣のレプリカ及び勾玉を所持することが日本の正統なる帝として皇位継承の際に代々伝えられています。中国でいう”玉璽”みたいなもんでしょうか。 @八坂瓊曲玉(やさかにのまがたま) 天照大御神が天の岩戸に隠れたとき、伊斬許理度売命(いしこりどめのみこと)によって造られました。 「や」はたくさん、「さか」は古代の長さの単位。「やさか」とは「とても長い」という意味です。長い紐に通された曲玉のことであると言われています。これは現在も皇居に祀られています A八咫鏡(やあたのかがみ) 天照大御神が天の岩戸に隠れたとき、玉祖命(たまのおやのみこと)によって造られました。 「や」はたくさん、「あた」は古代の尺度で人差し指と中指を開いた幅を意味しています。大きな鏡という意味でしょうか。古代では単純に大きくて立派なものを所持していることは権力の証だったのでしょう。また、一説によると「八頭(やあた)」と書き、突出部が8つあることを意味しているとも言われているようです。現在は伊勢皇大神宮(三重県伊勢市)に祀られています。 B草薙剣(くさなぎのつるぎ) 須佐之男命が八俣大蛇を退治した時に蛇の尾から見つけ、天之叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)」と名付け、天照大御上に献上しました。そのずーっと後、日本武尊が東国遠征の時、火攻めにあった際にこの剣を使って周囲の草を薙ぎ払い、難を逃れたことからこう呼ばれています。現在は熱田神宮(愛知県名古屋市)に祀られています。 古語拾遺(807年成立)では、天孫降臨の際に邇邇芸命(ににぎのみこと)が授かったのは鏡と剣の二種であるとされています。また、690年の持統天皇即位礼では「神璽の鏡剣」を奉ったとありますが、勾玉は記載にありません。このことから古来神器は剣と鏡の2種であり後に勾玉が加わったとも、逆に勾玉の方が古くから神器としてあり、後に剣と鏡が加わったとも言われています。 また、太平記によると三種の神器は壇ノ浦の戦いで平家と共に生みに沈んだとされていますが、草薙剣は熱田神宮より外に持ち出された記録はなく、神宮内に現存しているといわれています。また、八咫鏡も同様に伊勢神宮から持ち出された記録はありません。宮中に有ったのは曲玉のみとのことです。(「草薙剣のみ現存する説」「すべて現存し、形代が入れ替わっている説」もある) ・・・ちなみに、家電三種の神器 @昭和30年代 白黒テレビ、電気冷蔵庫、電気洗濯機 A昭和50年代(3C) カラーテレビ、クーラー、自家用車 B2000年代(新三種の神器) デジタルカメラ、薄型テレビ、DVDレコーダー ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ■伝承(2005.6.2) 私たち、今神楽を舞っている者は、そういう神楽があることも後の世に伝えていく使命を背負ってるのかな、と思います。 |