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上沼田神楽(うえぬだかぐら)
 上沼田神楽は主に「古事記」に伝わる物語を演じるもので、起源は享保2年(1717年)以前と言われている。”幸せを求め、災いを防ぐ”神楽として、近隣の地区の神社を奉納してまわることで、古くから地区住民の気持ちを和ませ、心を通わせる手段にもなっていた。
 戦後、農村の過疎化が進み、伝承する若者もなく、一時は断絶の危機を迎える。しかし昭和52年、伝統文化を受け継ごうという地元住民の熱い想いにより上沼田神楽保存会を結成。昭和56年10月には錦町無形文化財の指定を受ける
(平成18年3月20日の市町村合併に伴い、岩国市指定無形民俗文化財に指定替)
 以後、県内外の神社への奉納や各地イベントへの参加、海外公演を行うなど、積極的な活動を行っている。
 また、平成17年4月には、保存会の結成以降、会長として約25年に渡り保存会をまとめてきた岡村巌が次代にその任を譲る。現在は2代目会長として、鮎川哲男が保存会の舵を取る。

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 【起源】
 【保持団体名】
 【現保存会結成】
 【文化財指定】
 【氏神社】
 【練習場所】
 【練習日】
 【会員数】
 【連絡先】


享保2年(1717年)以前
上沼田神楽保存会
昭和52年
昭和56年10月 錦町指定無形文化財
      [現・岩国市指定無形民俗文化財]
神沼田神社
沼田ふれあい神楽交流館(山口県岩国市錦町須川上沼田
毎週土曜日 20時〜24時
25名  <R2.1.1現在の会員平均年齢 約53歳>
会長 鮎川哲男
 090-7373-4164
※メールの場合はこちら
(HP管理人宛)

 ★公演依頼受付中!
   奉納、イベント、慰問などお受けします。会長又はHP管理人までご相談ください
 ★会員募集中!
   上沼田神楽の保存のため、より多くの方の参加が必要です。
   舞方、奏楽、裏方、ビデオ係etc・・・何でもオッケー!
   真剣に取り組む方なら町内外は問いません。まずは見学からいかがですか?
 ★練習風景を一般公開!
   神楽に関心がある方は練習を見に来ませんか。
   公演中とは違う別の顔が見えるかもしれませんよ・・・?

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上沼田神楽の由来
 〜昭和56年著「神楽伝説 上沼田神楽」より書写〜
 上沼田神楽の起源は享保2年(1717年)以前と云われ、その由来についてはさだかではないが。沼田地区は、東に本郷村、西に錦町高根を境にもち、山の中に滑り出たような集落である。古くは戸数も百軒以上を数えたと云われる。それは百軒目の屋号を百尻と呼んでいる事からも推察される。

 古来、平家の落人が隠れ住んだとされ、その伝説は様々に語り継がれている。耕地も棚田式耕地が多く、水が至って少なく耕作に大変不自由をしたと云われる。村の北側を女峠谷、南に田ノ迫谷が流れているがその両谷とも水量少なく畑作が主で、陸稲やソバ、アワ、キビ等を盛んに栽培したと云われ、当時の生活は至って困難であった。

 しかし文化の流れは案外と早く信仰と共に神楽が起きた。神社の数も多賀神社・白鳥神社・柿ノ本人麻呂神社・杵崎神社と四社を有している。
現在は一社に統合

 古人の伝承によると上沼田神楽は現在の形のものと合わせて三回変わったと云われる。最初は信仰を主とした神楽で、その目的は幸せを求め災いを防ぐことであり、「ねぎごと」に対し「のりごと」がある訳である。そして文化の高揚と共に神楽の形も変わり、神明原部落の若者も交じえ、その神楽の形は更に変わっていったと云う。しかし、年月と共に神明原部落の若者も少なくなり、上沼田部落の若者達が独立してこの神楽を継承した。

 ここで再び神楽の大改革が起きた。それは今昔の信仰的神楽からショー的な神楽が要求される時代へと変化したからである。ちょうどその頃、広島県安芸郡白砂(現在の広島市佐伯区湯来町白砂)と云う所から石工職人が当地を訪れ、この職人が神楽を知っていたところから、師匠として新しい形の神楽を学んだのである。

 さて、ここで申し述べなければならないのは、上沼田部落は、女峠と田ノ迫の二つの講に分れている。その講が心を合わすにもこの神楽の改革は役立ったものと思われる。それは神楽囃子の中に「タノサコ、メットウ、タノサコ、メットウ、タノサコメットウ、トン」と云う渡り拍子がある。二つの講の若者が一つに集り、貧しく苦しい生活の中から「田ノ迫・女峠」と渡り拍子を踏み、テンポの早い六調子と合せて、毎夜きびしい練習に励んで来たのである。そこでこの神楽一般大衆の支持を得て、部落民に働く喜びを与え、村の空気を明るくし、秋ともなれば村の神社は勿論、他方の神社にも神楽の奉納に出掛け、住民の慰安につとめた。

 そこで神楽を分類すると、伊勢系・巫女系・出雲系・獅子系に分けられる。今の上沼田神楽は、出雲系であり、出雲系は神能式のもので名称を神代神楽とも呼ぶ。神楽の行われる場所については、古くは民家を当屋と定めてその年の神楽の終わりに翌年の当屋を決めていたと云う。現代ではこの風習は全くなくなり、すべて神社で行われている。

 また、この頃、松本と云う神官が上沼田神楽の縁起を一般の人々に解りやすくする為に改めている。

 時代の流れは、人の心も変えていく。第二次世界大戦の勃発と共に若者はすべて戦場に赴き神楽の舞い人はいなくなり、僅か12才の子供から60才以上の高齢者が加わり、神楽が続けられた。それは第二次大戦に何が何でも打ち勝とうと云う信仰の心からと、農村に他の娯楽がなかったからと思われる。

 願いも空しく日本は敗戦を迎えた。そして戦後の高度成長と共に各家庭にテレビが普及し、こうした古い郷土芸能は見捨てられ、加えて激しい農村の過疎化は進み、上沼田神楽も神楽を伝承していく若者がいなくなり、一時は中絶し、解散寸前のところまで来ていた。しかし、戦後30年目にしてUターン青年や周辺の若者達が、このすばらしい無形文化財の滅亡を憂い上沼田神楽の保護に乗り出し、伝承につとめている。

 今や時代は低成長期に変わり、各地でこうした神楽が甦りつつある。やはり郷土に根強く浸透し、里人の心の一角に生きている無形文化神楽はいつまでもいつまでも郷土に愛着をそそる何ものでもなかろう。

 そして上沼田神楽は再び花開いたのである。